この大会の出場に当たり、お天道様に2つお願いをした。
当日天気が良くなりますように、そして、膝が痛くなりませんように。
きれいな景色を眺めながら観光マラソンができそうなところ、それが、フルマラソンデビューの地としてたねがしまロケットマラソンを選んだ理由だった。

しかし、一つ目のお願いは見事に裏切られた。雨である。
昨日も明日も晴れなのに、今日だけ雨である!
しかも、台風並みの豪雨と強風である!
まっこと見事な男っぷりのいい裏切られ方に感心する。
まぁ大汗をかいたと思えばいい。
そう覚悟を決めて、100円のビニールのレインコートを羽織り、スタート地点に臨む。

問題は風だ。
たねがしまロケットマラソンは公認コースではない。公認コースであれば、風向きが一定にならないようにコース設計されているため、風は敵にもなるが味方にもできる。しかし、たねがしまロケットマラソンのコースは、島を北から南へ縦断する直線的ワンウェイだ。この日の風向きは南風。終始向かい風に苦しめられることになる。(後日調べたところ、この日の平均風速は7m強、最大瞬間風速は10mを越えていたようだ)。
「50km走るつもりで行こう。ゆっくりしたペースでしっかり給水と給食をとって、最後の5kmだけスパートしよう」とレース設計をする。

楽しみにしていた火縄銃の号砲でスタート。
「今日は雨だから火縄銃も中止になるんじゃないだろうか」と心配していただけに、安堵とうれしさが入り混じった気分だ。
道路脇では、応援に来ていた人が火縄銃を触らせてもらっている。うらやましい。

フルマラソンの参加者は300名程度のため、すぐにばらけて混乱もない。マイペースで走ることができる。
前日からさんざん聴かされてきたたねがしまロケットマラソンのテーマソングのサビ「めざせ宇宙!かけろ地球人!過去から未来へ駆け抜けろ!」が頭の中でリフレインする。「地球人ってなんかしっくりこないなあ」と心の中で悪態をつく。

11km 付近の雄龍雌龍の岩(おだつめだつのいわ)までは多少アップダウンはあるものの海岸沿いの走りやすいコース。天気が良ければきっととても眺めがよく、そして、とても気持ちよく走ることができただろう。
でも、天気のことで文句は言うまい。誰が悪いわけでもない。屋外競技であるかぎり、雨の日もあれば風の日もある。たまたま今日の天気が、自分の初マラソンのステージとして与えられたに過ぎないのだ。
スタート地点までの送迎バスで一緒だった男が言ってたじゃないか。「たねがしまは晴れたら晴れたで地獄だよ。暑くて死にそうになる。雨で良かったよ。」
ともすれば雨男・雨女を探し出そうとする邪な心を必死でなだめる。
見えない遠くの景色を諦めて、近くの岩に砕け散る波を見ながら黙々とペースを刻む。

雄龍雌龍の岩公園の給水ポイントでは、予定通り、給水と給食をしっかりとった。
実は雨の中を走るのは初めての経験だが、「雨だからどう」ということはないようだ。今のところ普段10kmを走ったあとと何ら変わりは無い。マメもできていない。
軽く屈伸をして、雄龍雌龍の岩に手を合わせてから、再び走り出す。どうか足が痛くなりませんように。

コースは、島の西海岸を離れ、東海岸に向けて内陸部に入る。いよいよ山越えだ。

たねがしまロケットマラソンのコースはアップダウンが多く、かつ、激しいことは事前に知っていた。
昨日島内移動のために乗ったバスがコースの一部を走ったため、その激しさを目で確認することもできた。
しかし、目で見て知ったことが、実際に走ることに何の役にも立たないことを実感した。知ってはいたが、分かってはいなかったのだ。

走って体で感じたアップダウンはすごかった。
3週間前に走った三浦国際市民マラソンもアップダウンの激しいコースとして有名だが、たねがしまロケットマラソンの比ではない。基本的にフラットな部分が無いのだ。上っているか、下っているか、いずれかである。
下り坂の先に上り坂が見える。
「ああ、あの坂を上るために今下っているんだな。」
本来楽に駆け下りるはずの下り坂を駆け下りたくなくなるほど、何度もアップダウンが繰り返される。
膝にダメージが蓄積されるのが分かる。痛くなるのは時間の問題だろう。

「もも、けつ、もも、けつ」。
なるべく膝に負担がかからないように、腿の筋肉とお尻の筋肉を使うことを意識しながら、坂を上り下りする。
「もも、けつ、もも、けつ」。

サトウキビ

この日実際に種子島を走るまでは、ザワワザワワと風に揺れるサトウキビ畑の間を走るものと勝手に思い込んでいた。行けども行けども壁のように連なるサトウキビ畑を勝手に想像していた。
しかし、そのような景色は一向に見当たらない。刈り取られて束になったサトウキビを道端でちらほら見かけるだけである。
当たり前だ。あとで知ったことだが、3月下旬は、サトウキビをちょうど収穫し終える時期なのだ。
自分の無知さ加減にほとほと呆れる。

もうひとつ無知を反省したことがある。
種子島は老人の島だと思い込んでいたのだ。
そして、今日は雨だから沿道で人影を見ることはほとんどあるまいとも思い込んでいた。
甚だ失礼な話である。
大雨と強風にもかかわらず、島の皆さんはずっと応援して下さっていた。中には、傘も差さずに濡れながら応援して下さった方もいた。「ご苦労様」とこちらから声をかけたくなる。実際、そう言って声援に応えるランナーもいた。
そして、声援の中には黄色い声も混じっていた。
男の体というのは不思議なものである。ジャージ隊から発せられる黄色い声を聞くと、いつのまにかペースが上がっている。
「このスケベオヤジ!」
猛烈に反省するとともに、ジャージ隊を上り坂に配置してくれたら、きっといい記録が出るだろうな、とも思う。決して自慢できる記録ではないが、、、

島中央部の山越えは唐突に終わる。
当然ながら、「これが最後の坂です」とか「山越え終了」とか、そういった合図や標識は無い。
下り坂の先に上り坂が見えないことから、さっきの上り坂が最後の上り坂だったことを知る。
上り坂の代わりに、海が見える。
ついに東海岸に出たんだ。島を横断したんだ。山を越えたんだ。もうしばらくは坂を上らなくていいんだ。
じわじわと湧き上がる喜びを感じながら、長い坂を軽快に駆け下りる。

坂を降りきったところがちょうど27km地点。
トレーニングでは28kmまでしか走ったことが無いので、あと1km走ると、いよいよ未知の領域になる。
あれだけのアップダウンを走ってきたあとなのに、まだ膝は痛くなっていなかった。
「天気が良くなりますように」というお願いは聞き入れてもらえなかった。
それならば、もう一つのお願い「膝が痛くなりませんように」だけは聞き入れて欲しい。
お天道様のあるべき方向にうらめしそうに顔を向ける。南国にしては冷たい雨がただただ顔に降りかかるばかりであった。

しかし、もう一つのお願いも聞き入れてはもらえなかった。
31km付近で右膝の外側に違和感を感じ始める。
まだ痛くはない。
しかし、いずれ痛くなるであろう違和感だ。
あと10kmだが、まだ最大の難所は越えていない。
「不安」という"目"が一気に右膝に集中する。
ちょっとのことが気になり、「不安」を増大させる。
目をそらせ!
違うことを考えろ!
景色を楽しめ!
必死に気を紛らわせようとする。
そのとき突然雨が激しくなった。滝に打たれているようである。
一瞬、膝の違和感を忘れる。こういうのを恵みの雨と言うのだろうか。

34kmの距離標識の先に、ゆっくり右にカーブした上り坂が目に入る。種子島の守り神の龍のしっぽのようだ。いよいよこのコースの最大の難関にさしかかった。これから、龍の頭を目指して、その背中を一気に駆け上がらなくてはならない。標高差80m。25階建てのビルの階段を駆け上がるようなものだ。

膝の違和感が、オセロの駒を裏返すように、少しずつ痛みに変わっていくのが分かる。見上げると、歩いている人が何人もいる。スタート前のレース設計通り、体力はまだ十分残っている。まだまだ足は動く。
「膝の痛みで走れなくなるまではとにかく走り続けよう。絶対に歩くな!」。

やっとの思いで、しかし歩かずに、龍の頭に到達。
「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」。
本当ならば、気持ちよく坂を駆け下り、上り坂のロスを取り戻すはずだった。
しかし、ここから風が猛烈に強くなってきた。
上昇気流が山肌を吹き上がり、体を押し戻す。
なかなか思うように坂を駆け下りることができない。

風は平地に降りても治まる気配を見せなかった。
せっかく余力を残していてもラストスパートがかけられない。
沿道のたねがしまロケットマラソンの旗が千切れんばかりに翻る。
トレッドミルでも走っているかのように前に進まない。風景が変わらない。
ずいぶん走ったつもりでも、ちょっと首を横に向けるだけで、見覚えのある景色がまだそこにある。
くそっ。
膝は痛いが、まだまだ走れる。余力もある。それなのにペースが落ちるのがとても悔しい。

レインコートがバタバタと音を立てる。
思えば、風の抵抗になるにもかかわらず、ずっと羽織ってきた。
当初は、体が温まったら脱ぎ捨てるつもりだった。しかし、この日の雨は南国にしては冷たい雨だった。
「何時間も雨と風を受け続ければ体が冷える。体が冷えれば体力が消耗するだろう。多少風の抵抗になるのは我慢してラストスパートのときまで羽織って行こう」
そう判断してここまで来たのだった。(ゴール後、レース中に熱を出して棄権した人がいたと聞いた。恐らく自分の判断は誤っていなかったと思う。)
もうここまで来たら脱いでも良かった。でも、何となく脱ぎ捨てられなかった。
ゴールまで着ていこう。

終わりの無いレースは無い。
なんとか種子島宇宙センターまでたどりつき、ゴールに向けて、最後の直線を駆け下りる。
全行程中、この直線だけが西から東へと向かう。
さっきまでずっと敵として戦ってきた風が、追い風に変わった。これまでの健闘を讃えるかのように。
よくここまで耐えたね。

追い風にも相変わらずバタバタ音を立てているレインコートに話しかける。
「相棒、あれがゴールだ。」

ゴールでは一人一人名前を読み上げてくれて、一人一人テープを張ってくれる。
写真も撮ってくれるようだ。
カメラに向かってにっこり笑いながら、手を上げてゴールテープを切った。
そして小さくガッツポーズをした。