どうにもこうにもワシントン

第2話 アメリカはチャンスの国である

9月の初め頃、私の研究のアドバイザーのP教授から電子メールが届いた。
「Workshopのお知らせ

  • タイトル:Mobility Management Personal Communications
  • 日時:9月8日午前9時~午後5時
  • 場所:George Mason University, Fairfax, VA
  • 司会:P教授

 ・・・」

渡米したばかりで、まだ何も勉強していないのにWorkshopなんかに参加しでも時間の無駄だなと思ったが、司会が当のP教授である。当日特に用事があるわけでもないし、George Mason Universityはメトロ(地下鉄)で行かれる距離だ。断る理由は無かった。(これは、日本的発想だと思う。)

9月8日。地下鉄とバスを乗り次いで、George Mason Universityに向かう。予想外に時間がかかり、大学前のバス停に到着したのがちょうど9時であった。『大学に着けば案内があるだろう。』そう高をくくっていたのが甘かった。案内なんて有りゃしない。この大学のどこかで今Workshopが始まろうとしている。それを探さなくてはならなくなった。しかし、どこで聞けばいいのかがまず分からない。近くの学生に何度も尋ねながら、漸くGuest Informationにたどり着く。
「その学会ならStudent Unionでやっているわ。地図で説明してあげるわね。」
そう言いながら受付嬢が取り出した地図を見て、驚いた。『この大学、とてつもなく広い』。僕がそれまでうろうろしていたのはほんの入口付近で、全大学の1%くらいの範囲である。そして、目指すStudent Unionに行くためにはその敷地を横断しなければならなかった。

案の定、僕は迷子になってしまった。再び、地図とにらめっこ。どうやら学生駐車場に来てしまったようだ。方角を見定めて再び歩き出した途端、日の前の車のクラクションが鳴った。運転席の窓がスルスルッと開いて、ブロンドの美女が顔を出して、何か言った。残念ながら当時の僕の英語力は幼稚園児並みで、彼女がなんて言ったのか分からない。きっと『道に迷ったの?』とでも言ったのだろうと推察して、
「Yes.」
と、返事をしながら車に近づいて行くと、彼女は助手席のドアを開けるではないか。
「?」
「どこまで行くの?帰るんでしょ?」
推察するに、彼女は1限目の授業を終えて帰るところで、僕のことを同類の学生と思ったらしい。そして、僕を僕の部屋まで乗せていってくれるつもりで、先程は『乗ってかない?』とでも言ったようだ。それにしてもものすごい美人である。こんなチャンスがあるものだろうか? もし、何も用事が無かったら、すかさず『君の家に行くところ。』とでも返しているところである。しかし、良く考えてみろ。今日はP教授が司会を務める学会があるのだ。
(それをサボるのは来米早々印象を悪くしやしないか?)
(いや、こんなチャンスを逃す手があるか。『急に体調を崩しちゃって。』とでも言えばいい じゃないか。)
(いやいや、誰かが僕の姿を目撃していたら、すぐにうそだってばれちゃうよ。)
などなど、一瞬の内に天使と悪魔が議論をかわす。結局、天使が勝って、
「帰るんじゃないんだ。道に迷っちゃって、Student Unionに行くところ。」
と言って、助手席のドアを外側から閉めた。
「あら。残念だわ。またね。」
「僕も残念です。」
という訳の分からない返事が終わらない内に彼女の青のアコードは走り出し、見る見る遠ざかっていってしまった。『またね。』と言っても、もうこの大学に来ることは無く、彼女に会うことも無いだろう。後ろ髪を引かれる思いで、足取り重く再びStudent Unionに向かう。『いや、これで良かったんだ。お前は結婚しているじゃないか。』道徳的観念をもって慰めるが、いっこうに足取りは軽くならない。

10時過ぎに漸くStudent Unionに着いた。ところが、である。会場には誰もいない。椅子はきれいに並べてあって、OHPも準備OK。演台には水差しまで置いてある。しかし、肝心の人がいない。いた形跡も無い。まるで幽霊船でも見ているような感じできょとんとしていると、大学職員らしき人がやって来て、
「学会の参加者ですか?」
と、聞いてくる。
「そうですが。誰もいないので、びっくりしちゃって。」
「私もよく分からないの。今朝から誰も来ていないのよ。せっかく会場をセッティングしたのに。頭に来ちゃうわ、まったく。」
僕に怒りをぶつけられても困る。大方、日程変更の連絡漏れだろう。
「ちょっと調べてみます。」
そう言って、急いでその場を立ち去り、P教授に連絡を取った。
「開催日を明日に変更したんだ。大学にも連絡したし、君にも電子メールを送ったはずだけどな。」
そう言えば、最近電子メールを見ていない。電話を切るとむらむらと後悔と不満とが湧き上がって来た。メールを見なかったことに対してではない。学会なんてどうでも良かった。
『そうと知っていたら、車に乗ってたのに!』
ブロンドの美女が一層美化されて頭の中に充満する。こうなると、『日程変更を早めに知っていたら、そもそも今日この大学に来なかったし、彼女にも会わなかっただろう。』などという論理的な考察は不可能である。『明日また会えるかもしれない。』そう思い直すのが精一杯であった。

翌日、僕はわざと遅刻して昨日と同じ時間に来た。遠回りして学生駐車場にも行ってみた。しかし、彼女も彼女の青のアコードも再び見ることはできなかった。アメリカはチャンスの国である。しかし、何度も訪れてはくれない。