3月11日
『皆様方には、ご心配をかけたり、励ましの書き込みなど本当にありがとうございました。
すごく勇気ずけさせていただきました。
一人一人にお返事したいのですが、まだちょっと
心にゆとりがもてません。お許しください。
電気は割と早く復旧したのですが、水道が5日前、電話ネットが3日前にやっと復旧しました。
私の住む四ッ倉町(よつくらまち)は、
いわき市の北の位置にあります。そして我が家は、6号国道を挟んで波打ち際から250mくらいの所にあります。
地震のがれきを片づけているとき、堤防を超える波を見て慌てて逃げました。
地震から約2時間後我が家をみたら1m程水没
危険だから入らないよう警察官に言われ、近くの高校での初避難生活?それでも我が家が心配で2度、3度近くまで見に行きました。
携帯も繋がらず、近くに住む娘夫婦と連絡も取れなかったのですが、夜11時頃私達のことが心配で家を見に来た娘と偶然会うことができ、
妻と私、そして87歳になる私の母と3人娘の所に二晩、そして、福島にいる姉夫婦の所に10日程避難してました。
そして私の所は、原発の距離が屋内退避ぎりぎりの32,33K地点に位置します。
私が帰ってきたころは、街の人口は約半分、
友人知人は新潟や東京に避難しています
。
営業している店、スーパーはいまだありません。
コンビニが一軒8時間程営業してるだけです。
炊き出しや市から配給されるパンなどで
食事しています。
地震、それに伴う津波、原発問題
そして、いつも一緒に走っていた友人の死
(車ごと津波にのまれて)、
苦しいほど悲しい思いもしました。
悲しんで毎日泣いていても何も解決しないし、
友人もそのことを望んでいないだろうと思います。
3月、4月、6月と二人で申し込んだ大会、
多分殆どの大会が中止か延期になると思います。
でももし大会があれば、彼の分まで彼と一緒に走ってる気持ちで走りたいと思っています。
瓦礫と泥砂の街を昨日から走り始めました。
3月6日の大会以来、約1カ月ぶりに走りましたが
足腰はなまっていますが、心まではなまっていないつもりです。
放射線を気にしてびくびく生きるより、
好きなことをして人間らしく生きたい、
泣いてくよくよ生きるより、
笑って走ることのほうがいい。
いまだ家の片付けも終わらず、書き込みも
なかなかできませんが、また時々顔をだしますので、よろしくお願いし
ます。』
あれから11年また3月11日が来た。
2011年3月6日ラン友金成さんと勿来の関マラソン15キロレースに参加した。
「長谷川早く帰ってこい!娘(子供)と郡山行く用事があるから」と5キロの部に参加し先にゴールしていた彼は訳あり別れていた娘との10年ぶりの再会を楽しみにしていた。
「3月12日(土)、13日(日)は娘と軽井沢に出掛けるから一緒に走れないぞ、そして明日の朝のコーヒーは用意しなくっていいぞ、11日は久しぶりに教習所の仕事が入ったから」と
3月10日夜ジムからの帰りに彼と話した、それが彼との最後になってしまった。
そして11日午後2時46分大きく大地が揺れた、そしてその後過去経験した事のない大津波が襲ってきた。
彼は大好きなバスの運転中津波でこの世を去ってしまった。
震災後避難先から自宅に戻り、4月からまた走り始めた。
その時のブログをコピペし忘れないように避難生活を終え?我が家に帰ってきました。
そして気が付いた!結構速く走ってるぞ、58歳の僕は若かった!